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正八面体

こんにちは。今日も更新します。
依藤です。

昨日は諸事情により正八面体について2時間ほど調べ、紙を折って実際に手を動かしたくさんの八面体をつくり、ネットで書かれている問題の間違いを見つけ、ワクワクしておりました。
なんだかいいテーマで、面白そうなことができそうだ!と、楽しみにしております。

さて、立体の分野は苦手な子が多い分野でもあります。かくいう私も小6の時に苦戦した思い出があります。
しかし、実のところ極端に難しいのは中学入試だけで、高校入試になると立体図形の出題頻度と難易度がやや下がります。

さらに大学入試では正確に書けることを前提としないヘンテコな立体図形について出題されることがあります。
どんな図形かを正確にイメージできないけど問題文で聞かれている体積は出せた。という現象が起きえるのです。
となると、立体のイメージ力を鍛える機会というのは数学よりも算数で多い気がしています。

その上、一部の人しか本格的に勉強しない単元であるとも言えます。

しかしながら、中学、高校、大学、さらには社会人になってからも、周りで立体のイメージがとても上手な人がいたら、憧れませんか???

憧れませんか?

かっこいいと思いませんか?

思いますよね?

はい!
かっこいいですよね!!!

もちろん素質的なところもあるのですが、鍛えがい、やりがいのある単元であると感じています。
やっぱりなんだか、かっこいいですし………。

さて、私は昨日多面体について言わば勉強したことになりますが、ここからは教えることと教わることの違いについて考えてみたいと思います。

当然のことですが、生徒として塾に通い学ぶ経験と、先生として教える経験というのは、似ているようで違いがあります。

「教える」と「教わる」の違いということになります。

何かを「教える」ためには、複雑なことを要約する力が必要で、どこまで上手に言語化できるかが問われているのです。

この「要約する力」は自分の中に潜む曖昧な要素を綺麗に切り落とし、美しいものにする作業でもあります。

私はこの作業によって削がれた曖昧な要素こそが、教える側にとって一番「教わる」べき所であるように感じています。

これは一体、どういうことでしょうか。

仮に、知識を球状のボールだとすると、人の知識というのはどうしても偏りが生まれボコボコした形になってしまいます。
これでは上手にボールを転がすことはできません。なので、ボールを削り綺麗な球にして転がす作業を「教える」とします。

一方で「教わる」というのは知識の球をとにかく大きくする作業になります。

「教わる」時に球の丸さ、美しさは重要でなく、荒削りでいいのでなんでも吸収する泥臭さが必要になります。そうしてボコボコのボールが出来上がります。

しかし、このままではいざという時に使い物になりませんので、いずれ綺麗な球にする必要があります。
その為には何をすればいいでしょうか。

実は手っ取り早く綺麗にする簡単な方法があります。

「教わる」側が「教える」側となりアウトプットをすることです。

これにより、ボコボコした曖昧な場所を可視化することができます。そしてそれらを削ることで、以前より少し大きくなった綺麗な球が生まれます。

こうした球をとにかく大きくし綺麗に削る作業の繰り返しが、その人の学びの厚みとなっていきます。

私は自分の知識の球を綺麗にすることだけでなく、もっともっと大きくすることが、自分のすべき勉強なのであると感じています。

その為には、指導する日々の中に潜む、小さな違和感や曖昧さに対してしっかりと向き合い、時には「教わる」側になることが必要があります。

八面体の話に始まり、球の例え話をすることでなんだかとっても立体図形チックな投稿となりました。

最後までご覧いただきありがとうございました!