「風化しちゃいけないって言う人、早く風化してほしいって言う人、両方がいるんだよね。難しいよ」と、お世話になっている宮城で教員をしている方が呟きました。被災地域の学校現場ならではの苦悩は、今も続いています。
そういえば復興が進むに連れ、どこの被災地域でも賛否両論分かれたのが、津波被害を象徴するような建造物を震災遺構として保存するか、解体撤去するのかという声でした。震災の記憶の在り方に答えはないのだと思います。
仙台市内の荒井駅にある『せんだい3・11メモリアル交流館』の職員の方は「展示の一つ一つ、情報発信の一つ一つ…全てが葛藤なんです。ここに来られる方の震災に対する思いは様々ですから」と私に語ってくれました。ご自身も被災した地域を居としてありながら、多角的な視点で震災に深くかかわるお仕事をされていること、私などには想像することすらできない複雑な思いををかかえていらっしゃることと思うのです。
宮城・岩手を…東北が大好きです。
しかしそうは言ったところで自分自身は震災の直接的な被害を受けていない、ましてや海外シンガポールに住み地元の復興にも寄与していない、そんな謂わば高見の立場から私は何ができるだろうか。
私は毎年この時期、塾での授業を通して、子どもたちに震災のことや防災のことを伝えていながら、7年目となった今年も、それに対して悩みに悩みました。
震災の年に生まれた子どもたちはこの春から小学1年生になります。
ましてや震災当時のことを記憶している小学生となると高学年でようやく…。
時間はあっという間に流れています。
東日本大震災の爪痕が、今現在も見た目にも心にも生々しく残る被災地域がある一方で、これからを生きる子どもたちにとって震災は、確実に「過去の出来事」になってきているのを感じざるを得ません。
そんな中で、いったい何をどう伝えたらよいのか…。
7年目の被災地域を見て回り、ますます悩み、授業準備が停滞してしまったとき、ふと思い出した言葉がありました。
あれは震災から半年後くらい、日本が原発の問題や依然続いていた大きな余震で不安の最中にいたころでした。
私の元バンドメンバーで現在もミュージシャンをしている先輩が言った言葉です。
「原発が怖いから逃げたって、次の地震や津波を恐れたって、どうにもならんものはならん。
それだったら俺たちができることは、今ある毎日を力いっぱい生き、毎日を笑顔で過ごすことだ。
そしてそれが俺たちのできる最大の防災だ」
ミュージシャンで破天荒な先輩らしいセリフだな、と当時笑って聞いていました。
しかし、子どもたちに今伝えなければならないことは、もしかしたらこのことなのかもしれません。
シンガポールで生活する子どもたちが将来、予期せぬ災害に見舞われたとき、いえ災害だけでなく予期せぬ事態に陥ったときのために、強く生き抜く力を育んでほしいと願っています。
今を一生懸命に生きてほしい。
一生懸命勉強して、一生懸命悩んで、そして一生懸命笑って毎日を過ごしてほしい。
そう心から願います。
そして私はそんな子どもたちの毎日を支えることができる仕事に就いている。
これは何と幸せなことか…。
7年目の3・11。
これまでどこか悲観的に授業をしてしまっていましたが、もっと前向きな授業にしよう、そう思うと停滞していた授業準備がいつの間にかどんどん進んでいきました。
〈⑤に続く〉