台風19号被災地支援活動のご報告
1. 支援活動内容
1日目(11月2日土曜日)は宮城の亘理町でのスポーツフェスティバルのお手伝いをしました。
この活動は、宮城の被災地の子供たちになにか笑顔を与えられるイベントを企画できないかという思いから開催されたものです。亘理町は、東日本大震災でも大きな被害を受け、津波で250人を超える方が命を落とした場でもあります。会場となった鳥の海公園運動場周辺も、震災の翌日に多くのご遺体が打ち上げられたそうです。この会場にブース出展に来ていた大学生たちから、今回の災害の状況を知るだけでなく東日本大震災のときの体験を聞くことが出来たことは、私にとって大変貴重なものとなりました。
2日目(11月3日日曜日)は台風19号で大きな被害を受けた丸森町での家財の仕分け、泥だしの手伝いをさせて頂きました。9時からはじめた作業、家の泥だしまで全て終えたのは夕方の16時ごろでした。お手伝いが終わったあとは、買い出しを行い避難所へ向かいました。避難所のスペースを借りて、簡単なデザートを作り、被災地の方に振る舞いました。
3日目(11月4日月曜日)は、私はその活動には参加できなかったのですが、「ちょんまげ支援隊」のメンバーは長野県に行き、そこでやはり避難所で炊き出しをしました。
2. 支援参加人数と支援対象人数
宮城での支援参加人数は20名程度です。
避難所では30名ほどの方に対して、落ち込んだ気持ちを元気づけるような食べ物を振る舞わせていただきました。
3. 被災地の現状
丸森町は台風から3週間ほどがたってもなお、言葉を失うほどの悲惨な光景が広がっていました。
泥の中に車が埋もれていたり、どこから流れてきたのか分からない、根っこから折れた木が道路に横たわっていたり、そこに元々何があったのか想像すらつかない状況でした。
私がお手伝いさせていただいた2階建てのお家は、1階部分のものは全部泥水につかってしまっている状態でした。
4. ボランティアに参加して感じたこと
ボランティアに実際に参加することで、今まで「遠い」場所にあった被災地が一気に「近く」に感じられるようになります。
ニュースで、何万棟が全半壊、床上浸水といわれても、それがどれくらいなのか、想像がしにくい。だからどうしても他人事のように思えてしまう。ボランティア活動に行くまで、私はそんな状態でした。それが、実際に被災地に行ったら、数では伝わってこない、被災した方々の「気持ち」を目の当たりにします。
私がそれを一番感じたのは、家財の仕分け作業、家の中の泥だしの作業でした。生まれてから65年間、ずっと同じ家に住んでいたお父さん。1階部分は全部浸水してしまい、「もう、取り壊しかな。」と呟いていたそうです。
(そのお父さんも台風当日、車ごと流されて車から何とか脱出しましたが、土砂を含んだ水の勢いに流され、一瞬黄色い光が見えて、「あぁもうこれで死ぬんだな」と死を覚悟したそうです。)
私たちの作業をじっと見つめているお父さんのなんとも言えない表情から、私は色々な想いがこみ上げてきました。お父さんは今、頭の中で何を想い、何を考えているのだろう、と。
泥を含んで重くなった家財一つひとつを手にすることで、そこにあった想い出が他人事とは思えないくらい、自分自身にも重く、重く伝わってくるのです。その「重み」は、実際に行って、お父さんの、あの表情を見ないと感じられないものです。
私がお手伝いに関わることができたのはたった1軒のお家、1つの避難所でしたが、そのお家に住んでいたお父さんには、「わざわざ京都からきてくれたんだってねえ。強く生きようと思えました。ありがとう」と言ってもらえて、避難所では、自分たちがひと手間かけたスイーツをおいしそうに食べてくれて「ありがとねえ」って何回も何回も言ってくれる方々に出逢えて、私にとって、「大切な人」が被災地にできるわけです。
そしたら、ニュースでその地区のことが出てきたらどうしても気になる。さらに言えば、その地区だけではなく、その台風で被害を受けた場所が出てきたら、どうしても他人事に思えなくなるのです。
「防寒服足りてないんだ、どうにかして力になれないかな」とか、今までだったら受け流していたかもしれない情報を必死に集めるようになります。だって、私が出逢えた「大切な人」に関係していることだから。
そんな「繋がり」が、実際にボランティアに行って得ることができた一番の宝だと思っています。
作業的なことでいえば、私1人にできることなんてほんの少しです。でも、「何もしない」のと何か少しでも「行動に移すこと」では全く違います。
「行動に移すこと」ができる人が集まれば、ものすごい力になります。
その力で、被災地の方々に希望を届けることが出来ます。そんな希望のひとかけらになれるボランティア活動を、私は心から素敵だな、と思います。
【KOMABA卒塾生】