シンガポールに来て早くも三週間が過ぎました、
この前まで冬の体をしていたのに、すっかりこの気温に慣れて、身体ってホント神秘的~なんてお気楽な思考で本日も生きております。
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本当にさっきふと思ったので書きます。
今だと思ったら、今やるべきなんです。人生そういうもんです。
「明日やろうは馬鹿野郎」って本当によく言ったもんですよね。
(今の世代はドラマ「プロポーズ大作戦」って知らないのでしょうか。必見ですぞ!)
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さあ、何をふと思ったかというと、
個性って殺しちゃいけないってことです。
誰にも個性はあります。
わたしは個性的だね、とか、人と違うねって言われることが、とても嬉しいです。
わたしはわたしだし、個人として存在しているし、きみはきみ。
いい意味で他人に無関心でありたいですが、人と比べることで人は成長することも多いです。
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なかなか個性を認められにくい環境が教育現場じゃないかなあ、と心苦しいですが思います。
みんなと同じ授業、同じ解法を求められる、同じ行動を求められてしまいます。
そこから外れたら怒られる。
しんどいですよね。
「なんで」って聞いてもそこに答えはきっとありません。
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正解のない答えを求められる学習環境って、大学入学以降でないと簡単には手に入れられないんです。
そこまで待てとは言いません。
じゃあその環境ってどこにあるのかなって言ったら、生徒同士の心の中にあるのではないでしょうか。
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友達があなたの個性を認めてくれる。
「その考えいいね、じゃあこれはどう思う?」
それだけでどこか救われることってありますよね。
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でもまだ自分を大人と自覚しない年齢の子供には、大人からの個性の承認も必要だと私は考えます。
教員がクラス全員の個性を的確に認め、手を差し伸べるのは難しい場面もあるのが現実です。
指導要領に基づき、「これを教えなければいけない」という使命のもと、職を全うするからです。
じゃあ、誰が??ってなった時に
お子さんの個性を認めてくれる大人ってどこにいるのでしょうか。
それは保護者の皆様と、そして私たち塾講師だと思っております。
まだ子育てなどは経験したこともないですし、わかったようなことも申し上げるのは恐縮ではございますが、
それでもやはり思うのは、
自分の帰る場所に、自分の個性の置き所・解放できる場所があることがどんなに幸せなことか、
ということです。
まだ大人としてより、親の元で育ってきた子どもに近い身としてお伝えさせていただきました。
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そして、
塾という場所。
先生でもない、保護者でもない大人がここにはいます。
ここに通う生徒の未来を一緒に見据えたいと思っている講師陣であると、短い交流ながら私自身感じております。
第三の大人として皆さんとどんな時間が過ごせるか、さらに幅広い存在でありたいと思います。
学生時代、私自身とても塾の講師の方々には特別な支え方をしてもらったと思っています。
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守らなければいけないことがある場面はある。
それがどうしてもで苦しい時もある。
でも、個性は殺されるものではなく、生かされるものである。
こういう考えを許せる教育現場がもっと身近にできていくように、教育学部生の端くれとして、KOMABAの一員として、考えていきたいと思います。
今溝