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NHK「これでわかった世界のいま」取材と防災授業②

2011年3月11日。当時のことを少し思い起こそうと思います。

当時、既にシンガポールで生活していた私は、多くの方がそうであったように起こったことが現実のものとは思えず、慌てふためき、家族や友人に決してつながらない電話をかけ続け、次々に更新される恐ろしい情報に涙を止めることができず、ただただ茫然自失となっていました。

「食べ物がない」という報道を聞けば自分が当たり前に食べていることに罪悪感。

「避難所で寒さに震えている」と聞けば熱帯のこの国いることすら許されないような、そんな思いが何日も何日も続きました。

そんな時、世界が、シンガポールが日本を救おうと動き出したことは、被災地の方だけでなく、海外在住の私たちにとっても有難いことでした。

同年8月の新聞記事によると、シンガポール赤十字社が集めた義捐金は約二十二億円にものぼり、例えばそこから岩手県陸前高田市にはコミュニティーホールが建設されています(ちなみに大ホールの名称が「シンガポールホール」と名付けられています)。

また、多額の義捐金だけでなく、あの時多くのシンガポールの人々が、職場で、タクシーで、レストランで「あなたの家族は大丈夫?」「私たちにできることはない?」「被災した人たちをシンガポールに呼びなさいよ」と優しく声がけをしてくれたことにも、本当に心が救われ何度も涙が出ました。

4月になり、当時の職場から休暇をもらい帰省した故郷のあり様はずっと忘れないでしょう。

高速バスでようやくたどり着いた仙台駅でいきなりの震度5強の余震。

「なんだよ、またかよ」

とひと月ですっかり慣れてしまっているような地元の人々。

電気は通っていたものの、実家の水道は止まったまま。

流せないトイレの悪臭。

貴重な水を使って毎日カップラーメン(すぐに気づいたが「ある」だけ有難かった)。

見慣れたはずの近所を歩くと、あちらこちらに崩れた塀や家屋の一部。

多くの屋根にはブルーシート。

道路は陥没と隆起で通行止めだらけ。

近所の学校や公民館は全て避難所になり、段ボールで区切られただけのプライベートスペースに大勢の人々。

そして……自宅からわずか10分と離れていない場所に延々と広がる……津波で破壊された町。

 

それまでに青年海外協力隊やNGO活動で、開発途上国の生活環境の悲惨さは何度も見てきました。

3.11からおよそ一か月、一日の大半を被災地の情報収集にあて、イメージを頭に焼き付け続けてきたはずでした。

しかし、目の前に広がる灰色の景色はそれとは全く異質の世界。

海水と海底の泥まみれになった瓦礫と悪臭、

東北の近いようで遠い春の肌寒さ、

何度も何度も上空を飛び交う自衛隊のヘリの音……

 

おそらくあの時被災地にいた全ての方々が感じていた、言葉にならない絶望感が体の全ての感覚を麻痺状態にさせていきました。

 

〈③に続く〉

石川