先週末、年明け早々にとんでもない震災があったばかりの能登半島で大規模な水害が発生してしまいました。
東日本大震災のとき、地元である宮城に住む姉がつぶやいたひと言が思い起こされます。
「3月11日の後は確かにたいへんな毎日だったけれど、なんとかしてやろうという気持ちにもなれた。でも(震災から約一か月後の)4月7日に起きた震度6強の地震で心が折れた」
震災の復興が遅れている、進まない、と言われている能登半島にあって、被災者の皆様が少しずつ取り組んで来られた町の回復、もっというと心の回復が根こそぎ奪われてしまったような水害。
私たちからでは想像もつかない失意を抱えていらっしゃることと思います。
被害にあわれた方々に心からお見舞いを申し上げます。
私たちもできることを考え、今回の水害に対して取り組めたらと考えています。
塾生の方には近々、お知らせいたします。
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「支援には2つの支援がある」
まだ協力隊でジンバブエに行く前、当時参加していたNGOの視察で作家・下川裕治さんとバングラデシュを一緒に旅している最中に聞かされた言葉です。
(詳しくは以下の過去のブログより↓)
https://www.cradle.asia/2020/01/23/rakhine%e3%80%80/
建物の復旧や施設の建設など目で分かるコトの支援。
心の問題や教育など目では分からないコトの支援。
私が2003年に協力隊としてジンバブエに派遣されたとき、その役割はチャカリ村での生活に打ち解け、小学校を巡回して音楽を指導することでした。
その日取れた食べ物を分けてくれ、とことん親切にしてくれる村の人たち。
私の授業を待ち望み、満面の笑みで音楽を楽しんでくれる子どもたち。
毎日が刺激的で充実した、日本では得られない幸せな時間をを送っていました。
もっと音楽教育を充実させるために、JICAの支援で学校に小さな音楽室を作りました。
もっともっと音楽指導を推し進めるために、日本の母校から鍵盤ハーモニカをたくさん送ってもらいました。
充実した協力隊としての活動が進んでいたようでした。
しかし、活動が進めば進むほど、ある疑問が少しずつ膨らんでいきました。
チャカリ村には私の前任で、美術と体育の協力隊員が活動をしていました。
その先輩たちは間違いなく、私と同じように村の人々に打ち解け、一生懸命に小学校で指導をしていたはずです。
学校には美術や体育の道具も残されています。
しかし今、美術や体育の授業がこの学校で継続されているようには思えません。
これはいったい…?
協力隊の支援とは……?
「成果の求められない協力隊だから…」
当時、ジンバブエの協力隊員同士が自虐的にもらしていた言葉です。
長いようであっという間の2年の協力隊の任期で、成し遂げられることはどれほどのものでしょうか。
ましてやその2年で伝えたことを、隊員の帰国後にも現地の人々が継承してくれるとなると……。
もちろんこれは派遣された国によっても異なりますし、職種によっても異なります。
もっと言うと派遣を受けれた現地の人々の理解にも左右されますし、更には協力隊員個人にもよると思います。
もしも、私がそれ以前にバングラデシュで下川さんの言葉を聞いていなかったら「まあ、そんなものか」と思っていたかもしれません。
しかし…バングラデシュで目にした日本のODAで建てられた学校は、誰に使われることもなく朽ち果てていました。
今、こんなに温かく私を受け入れてくれているチャカリ村なのに、私が日本に帰ったらこの音楽教育はやはり朽ち果てていくのだろうか。
そうはなりたくない、なってほしくない、と思いながらもどうしたらよいか分からず、どっぷりと悩み始めました。
(次回へ続く)
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私の人生観を変え、今も支えてくれている「ジンバブエ」に恩返しをしたい!
ずっと抱え続けてきたその思いを実行に移すため、現在以下のサイトでクラウドファンディングを個人的に進めています。
ジンバブエの子どもたちの未来を支える自立のための「教育支援センター設立」を目的とした活動です。
https://congrant.com/project/ccbica/12300
よろしければ覗いてみてください!(2024年9月29日まで実施)
石川