小学1年生のとき、父が知り合いから児童文学全集を譲り受けてきたのが事の発端でした。
本棚にずらりと並んだ背表紙と、頁をめくった時の古本ならではの独特な匂いに心が躍った思い出があります。
第1巻は『若草物語』。
それ以外にも『秘密の花園』や『赤毛のアン』、『小公女』などなど、思い出に残っている作品がたくさん。タイトルと背表紙を見て面白そうだな、と感じる作品から読み始めていきました。
そして、あるとき手にしたのが『フランダースの犬』。
幸か不幸か、それまでは「最後はハッピーエンド」の物語しか読んでこなかった私には地雷となった衝撃の問題作でした。
頁をめくって読み進めていくうちに「あれ?話の雲行きが怪しい……」と幼心に感じながらも、幸せな結末を信じて最後まで読んだのですが、ラストシーンは皆さんご存知の通り(未読の人はぜひ!)。
あんなに健気に生きていたネルロとパトラッシュがなぜ……!
という世の中の理不尽さを小1にして学んだ気がしています。おそらく本を読んで号泣したのは、このときが初めて。ご飯を食べても、お風呂に入っても、布団に入っても……その悔しさは冷めやらず、その後しばらく尾を引いていました。
決して明るく楽しい記憶ではないのですが、だからといって「けしからん本だ!」という訳では勿論ありません。むしろ心に深く残る、思い出の一冊となりました。
実は、この『フランダースの犬』について柳田邦男は「『言葉の力、生きる力』―「悲しみ」の復権―」の中でこんな風に触れています。
少年時代に他者の不幸に悲しみを感じ涙を流すという経験をするのを排除して、「明るく、楽しく、強く」という価値観だけを押しつけると、その子の感性も感情生活も乾いたものになってしまうと、私は考えているからだ。 そこで気づいたのは、日本の高度経済成長期以降の歴史は、大人の世界でも子どもの世界でも、「明るく、楽しく、強く」「泣くな、頑張れ」ばかりが強調され、「悲しみ」あるいは「悲しみの涙」を排除し封印してきた歴史ではなかったか、ということだった。 悲しみの感情や涙は、実は、自らの心を耕し、他者への理解を深め、明日を生きるエネルギー源となるものなのだと、私は様々な出会いのなかで感じる。私と同じ世代のある知人は、小学生時代に『フランダースの犬』に何度となく涙を流したことが、やがて養護学校の教諭となり、子どもたちの教育に情熱を注ぐようになる原点となったという。
この文章を読んでようやく腑に落ちたような気になりました。