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イシカワとジンバブエ その④

日本人が幼稚園や小学校で習う音楽教育は、12種類の音階から7つの音(ドレミファ…)を基本とする西洋音楽です。

一方、雅楽など日本の古典音楽は5種類の音階(ファとシがない)を基本としています(蛍の光や君が代)。

「音階を口ずさんでみて」と言って「ドレミソラド~」という人は、まあ、いないと思います。

どうしてこうなったのか、というと明治時代に学校教育で西洋音楽が取り入れられ、それが唱歌などで広められていったからだそうですが、これによって元々の日本の音楽は衰退し、文化の隅っこに押し込められたと言えると思います。

 

私が身につけた音楽は西洋音楽です。

ジンバブエには伝統的に伝わるリズム主体のそれはそれは素敵な音楽があります。

私が小学校で偉そうに西洋音楽を指導することは、もしかしたら彼らの文化を破壊しているのではないだろうか…?

↑ ジンバブエの伝統ダンス。子供のころから身につける。

 

前回のブログで書いた、音楽教育を広めて定着させたい、という思い。

しかしながらそもそも必要とされていないのでは、という思い。

悩みは複雑になる一方でした。

 

そんな時、私がいつも頼りにしていたのがカウンターパートのディック先生です。

彼はいつでも私の率直な相談を受け止め、ジンバブエ側、日本人側の両面から物事を考えてくれる柔軟さを持っていました。

 

何度も話を重ねた結果、私たち二人が至った目標は「国歌を正しく歌えるようにする」ということ。

ジンバブエの国歌は旧南ローデシアの名残があった国歌から1994年に刷新されていて、2003年当時としてはまだ新しい歌でした。

ジンバブエの小学校では毎週月曜日と金曜日の必ず朝礼でこの国歌を歌います。

また当時は年に一回の全国規模の合唱コンクールでも国歌の3部合唱が課題曲でした。

ところが、これが学校によって「別な歌」になってしまうことがしばしばあるのです。

国歌の旋律は5線紙に音符で記されます。

キーはG(ト長調)。

しかし12音階の楽器が必ずあるわけではない学校でキーがGと言われても分からず、先生が歌いやすいキーになってしまう。

いや、そもそも先生が音符を読めない。

 

「先生たちは国歌を正確に歌えるようになりたいと本気で思っているし、子どもたちもそう願っている」

 

ディック先生のこのひと言が、私の悩みを断ち切りました。

残りの時間でチャカリの小学校で国歌を正しく歌えるように根付かせる。

そのために寄付されたピアニカを使う。

先生にももちろん教えるが、先生は転勤してしまうかもしれないので、上級生から下級生に伝えていくよう「ピアニカクラブ」を作る。

通常の小学校での指導をこなしながら、毎日、放課後をつかってこの「ピアニカクラブ」の指導に励む日が続き…私は2004年の暮れに日本に帰国しました。

↑ 生徒同士でもピアニカを教え合えるように指導。

↑ 夕方、校舎が閉まった後は外で練習。

↑ 熱心なディック先生はいつも練習に参加してくれた!

日本に戻りすぐ、当時愛知県に本部があったNGOエコークラブに入れてもらい、2006年には代表の大学教授と一ヵ月、ジンバブエの視察に行きました。

ジンバブエにいる協力隊の仲間にも代々たくさん助けてもらい、チャカリ村の孤児に対する学費支援もディック先生を通して継続していました。

しかし、政情不安により2008年に協力隊の派遣が中止されたこと。

エコークラブの代表が2012年に亡くなったこと。

東日本大震災が起きてそちらの支援活動を始めたこと。

何より、2012年にシンガポールでKOMABAを立ち上げ、私自身の余裕がなくなってしまったことで、私とジンバブエのつながりは途切れてしまいました。

もちろんFacebookなどではディック先生をはじめ、当時の教え子たちとたくさんつながっていましたが、支援につながるような活動は一切ありませんでした。

↑ 2006年、NGOエコークラブの活動でジンバブエを再訪。

2024年3月。

ディック先生と会いたいな。

大人になった教え子たちと会いたいな。

チャカリのピアニカクラブはどうなったかな。

2006年以来、ジンバブエに向かいました。

 

空港でのディック先生との抱擁。

相変わらずな町並み。

抜ける青空。赤土の大地。

↑ 2006年以来、ディック先生と空港で再会。

↑ 毎日歩いたチャカリ村の道。

あふれかえる思いを全身に抱えて、チャカリ村に戻ってきました。

事前に通達してくれたディック先生のおかげで、小学校には当時の教え子や同僚が笑顔で待ち構えてくれていました。

そして20年前とまったく同じ校舎。

まったく同じ制服。

まったく同じ笑顔で始められた朝礼で子どもたちが披露してくれたのが…ピアニカクラブでした。

学校は、先生たちは、子どもたちは、20年間ピアニカクラブを続けてくれていました。

感動に震えくちゃくちゃになった顔で

「続けてくれてありがとう」と伝えると、

「…あたり前じゃないか。みんな音楽が好きなんだから。」

と、ディック先生や当時の先生がむしろ怪訝そうな顔で返してくれました。

 

この時を超える感動は、もうない…です。

あの時悩んで、意地を張って、たくさん議論して本当によかった。

チャカリの人たちと出会って、今またこうしてつながることができて、本当によかった。

↑ タイムスリップ?20年前と全く変わらないピアニカクラブの子どもたち。

↑ 得意そうに曲を披露してくれる20年後の子どもたち

私がジンバブエの支援をしたいのは、詰まるところ自分のためなんです。

開発途上国、アフリカ、貧困、教育、子どもたちのために…言葉はいくらでも選ぶことはできるのだと思いますが、自分のためです。

何かを得て幸せを感じるのが人生の一つの在り方、であるならば、ジンバブエの人たち、チャカリの人たち、教え子たち、ディック先生とつながりを得られたことが私の幸せなんですね。

 

今日で最終日のクラウドファンディングですが、これはゴールではなくスタートです。

ここから設立する教育支援センターで、またどんな幸せを得られるのか、楽しみで仕方ありません!

↑ 20年前の教え子たちと歌うジンバブエ国歌。完璧に覚えてくれていました!

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私の人生観を変え、今も支えてくれている「ジンバブエ」に恩返しをしたい!

ずっと抱え続けてきたその思いを実行に移すため、現在以下のサイトでクラウドファンディングを個人的に進めています。

ジンバブエの子どもたちの未来を支える自立のための「教育支援センター設立」を目的とした活動です。

https://congrant.com/project/ccbica/12300

よろしければ覗いてみてください!(2024年9月29日まで実施)