2011年3月11日。
その日は当時働いていた塾での保護者会。
昼過ぎから塾に集まった受験生を持つ保護者を前にして、学習のポイントを説明していました。
―シンガポール時間、午後1時46分。東日本大震災、発生—
受験国語の説明を終えて教室を出ると、他の先生たちが「実家は大丈夫?!」と慌てた様子。
一瞬何が起こったのか分からずきょとんとしていると、ニュース速報で宮城で震度7の地震が発生したと報じているそうだ。
(ついに宮城県沖地震が来たか)
実は第一報の印象は意外に冷静だったことを覚えています。
宮城県民は(他の地域でもそうかもしれませんが)、物心ついたときから学校や地域の防災訓練で「宮城県沖地震が必ず来る。だから備えなければならない」と刷り込まれできています。
だから、少し大きな地震があると「ついに来たか?」という思いがよぎり、しかしその後のニュースで「今回の地震は(大規模地震が予想されている)宮城県沖地震ではありませんでした」という報道を聞いて「ほっ」とするやら「今回のがそれだったらよかったのに」というなんだか残念な気持ちがするやら、とにかく複雑な心境がするのでした。
宮城県民の多くは、もしかしたらそんな感覚にどこか慣れすぎちゃっていたかもしれません。
実際に、その1年前にチリ沖で発生した大地震による津波が日本まで到達した時、私はたまたま帰省中だったのですが、ほとんどの人が避難をしていなかったですし、規制が張られたことで買い物に行く予定だった魚市場に行けなくなり「なんだよ、予定がくるうじゃん」と私自身苛立った記憶があります。
とはいえ、震度7???
(・・・これはたいへんなことになっているんじゃないか)
宮城の実家に何度も電話をしますが「ただいま電話がたいへん混雑しております。暫く経ってからおかけ直しください」というアナウンスが流れるのみ。
(ちなみにようやく実家に電話がつながったのが、震災発生から3日後の早朝4時でした)
冷静さは一気に不安に飲み込まれ、その後で説明しなければならなかった受験英語の時には頭が真っ白で、自分で何を話しているのか分からなくなり、ただただまとわりついた不安の塊がどんどん重くなるばかりでした。
そこからは多くの方が経験したように、この世のこととは思えない事実を伝える報道と映像に、ただ涙するだけでした。
地震被害が報じられる間もなく襲い掛かってきた津波・津波・津波。
実家近くの石油コンビナートは火の海。
高校の夏休みに仲間と原付バイクでよく出かけた海水浴場には数百人の遺体があがっているという。
家に帰っても眠ることが出来ず、インターネットのテレビ(Ustreamというサイトが日本のテレビを映してくれた)を通して、繰り返し繰り返し伝えられる映像を眺め・・・そして朝になってヘリコプターから映し出された惨状に、経験したことがない絶望感に身を震わせました。
《続く》