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連載「日々邂逅04」ーKOMABAを立ち上げたきっかけ その3—

日々邂逅04
ーKOMABAを立ち上げたきっかけ その3—

 

見たことがない、故郷の街並みが目の前に広がっていました。

 

電気が消え、人通りもまばらな仙台市の中心街。

至るところで青いビニールシートのかかっている屋根。

傾いた電柱や、スーパーマリオのゲームのように地面から浮き上がったマンホール。

崩れたブロック塀や倒れたままの自動販売機。

一見無事なようで、近づいてみると倒れかけている家屋。

 

多賀城市の実家につくと笑顔で、でも痩せこけた顔つきで家族が迎えてくれました。

4月7日の大きな余震により、実家は再び断水と停電が続いていました。

家に入るとつんと鼻をつく流すことができないトイレの臭い。

そう、被災地のニュースではなかなか伝わらないことの一つに「臭い」があります。

 

家の片づけを手伝い、何日かボランティア活動に参加した数日後、貴重なガソリンを使って両親と仙台に住む姉と共に気仙沼を目指すことになりました。

小学校教師をしていた私の父と母は気仙沼で出会い結婚をしたため、気仙沼には多くの恩人や教え子がいます。

その人たちの安否がずっと気がかりだったし、一度ちゃんと沿岸部がどうなったのかこの目で見よう、ということになったからです。

 

気仙沼に行くには壊滅した沿岸の45号線を避け内陸を北上し、南三陸町でようやく沿岸に出て、そこから少しずつ北上するしかなかったのですが・・・

その南三陸町に入った時の光景は今も忘れることができません。

 

海がまだ見えていない山間部の曲がりくねった道なのに、津波で家が流されている。

本来は町で見えなかったはずの海が遠目にキラキラと光りだすと、あとはもう無慈悲に破壊されつくした人の生活していた”町”が、一か月経ったその時も荒涼と広がっていました。

道路だったのか人の集落だったのか分からない、固められた場所をくねくねと通り抜け、自衛隊の方々や日本各地のナンバーをまとった警察官、インフラ業者の方々の献身な復興作業を傍らに見ながら、被災する前の数倍の時間をかけてようやく気仙沼に辿り着きました。

 

そこから各避難所を回ったり、恩人の入院先の病院を見舞ったり、生きての再会に感涙にむせんだり、命を落とした方の知らせに言葉を失ったり・・・

 

1週間後、私は後ろめたい気持ちでシンガポールに戻りました。

戻ったら当然、塾で子どもたちに被災地のことを伝えなければならないし、シンガポールでの復興支援イベントで被災地の話をしてほしいという依頼も受けていました。

しかし・・・この世のこととは思えない震災の惨状の中、そこで見たこと、被災された方々から聞いたこと、被災地にいて感じたこと。

それらをどう伝えよう、何から伝えたらよいのだろう、そもそも自分にそれを語る資格があるのだろうか・・・全く分からないでいました。

 

《続く》